僕は人生を変える大きなスイッチが2回入った☆今西にとって経営とは何か?
いつからでしょう。
ブログを全く書いていないのです。
いや、正確に言えば、「自分のブログサイトを更新していなかっただけ」とでもいいましょうか。
なぜ、半年以上の沈黙を破り、今になってこのサイトを更新するようになったか。
それは、ミラサポの支援で多くの人に「ブログは書かないとーーー」なんてエラそうに言っていて、
僕自身は全く書いていないのがなんとなく後ろめたいというかそんな気分になったからです。
きっと、今日1日書くと明日から少し書きません(笑)
半年後なのか、1年後なのか、ひょっとすると明日なのかわかりませんが、とりあえず今回は軽く書いてみたいと思います。
ただ、この記事を読んで今後の生活のお役に立つ人がいるかもしれません。
多くの人が「へー」という感覚で終わってしまうかもしれませんが、そこは適当に感じてもらえればいいです。
人生には修羅場があって当然。
僕の過去のブログを読んでいただければよーくおわかりになるかと思いますが、決して、裕福な環境で育ったわけではありません。
今の状況だけを見られると勘違いされるのですが、本当にお金のない家でした。
一番記憶に残っているのは、中学2年生の夏休みの出来事です。
家に帰ってくると、家の電気はつかない、電話もつながらない、ガスもつかない。
そして、部屋の片隅に溜まった請求書をなんとなく見てみると「家賃滞納」のお知らせ。
当時の日本はバブル絶頂期でした。
どこも羽振りのよい話が多く、ニュースを見ているとすごい話題が多かったように思えます。
我が家の現状はそんな日本経済とはかけ離れたものでした。
母親から指令が下る。「ビデオデッキを売ってきてほしい」
様々な光熱費の滞納から事実上のライフラインがストップした我が家だったのですが、一つの光が見えました。
それは母の知人が電化製品を買い取ってやるというものでした。
僕にとっては、家の電化製品がなくなるというのは、屈辱以外なんでもありませんでした。
そして、買い取ってもらうもの。
それは、僕の部屋の「ビデオデッキ」だったのです。
その時の喪失感は半端なかったと言えます。
お金がない我が家なのになぜビデオデッキがあったかというと、父の弟さんから中学祝いとしてビデオデッキを買ってもらったのです。
当時はとても嬉しくて色々なビデオを録画した記憶があります。
そんな大切なビデオデッキが無くなるのですからとても残念でしたが、生活のためならと大切なビデオデッキを風呂敷につつんで汽車に揺られ、母の知人が住む「西舞鶴」に僕一人で向かいました。
人生を変える大きな出来事。それが1度目のスイッチ。
西舞鶴に到着すると、母の知人が迎えに来ていたと思います(笑)
なんとなくしかここは覚えていません。。。
とりあえず覚えていることは、ビデオデッキとテレビがうまく接続出来たあと、夕食にでかけたときのことです。
まだ珍しい回転寿し(確かアトムボーイだったかもしれません)を食べに連れていってもらったのですが、豊岡にいる父と母を思い出しました。
両親はいいもの食べていないのに、僕だけお寿司を食べていて申し訳ないという罪悪感があったのを覚えています。
あまりにも自分の現状が惨めすぎて、悔し涙も出ないくらいでした。
ただ、そんな中、母の知人の旦那さん(当時は設備屋の社長さん)が僕にこう言いました。
「今の状況は大変だと思うわ。だけどな、悔しかったら将来経営者になってみ。そして、人を助けたらええんや」
そこでスイッチが入ったんだと思います。
「将来、経営者になる」と決意しました。
僕は全く勉強が出来ませんでした。360人近い同級生がいる中で常に最下位の方でしたし、何もとりえがありませんでした。
ただ、「将来、経営者になる」という決意のスイッチが入ったのです。
それが中学2年の夏でした。
失うものがなくなった瞬間、無になった。それが最後のスイッチ。
中学、高校、県立の専門学校となかなか波乱万丈のような面白い人生を歩んだわけですが、社会人になってからの20歳の夏。
母が末期ガンだと知らされます。
これは20年間で一番ショックな出来事でした。
いつかは親は亡くなりますが、その時期がとても早いもので、母も苦労ばかりした人生だったんだろうなと考えるととても辛かった記憶があります。
そして、1997年7月某日、仕事の昼休みが終わり、携帯電話を見ると留守電が入っていました。
電話をすると母が入院している豊岡病院からで危篤とのことでした。
すぐに病院に駆けつけると、もう意識がない状態。
なんとか呼吸をしている状態で、呼びかけにも反応をしませんでした。
とりあえず、電話をできるところにし、母の兄弟にも連絡をしましたが、遠方に住んでいるためすぐには対応ができないということで、どうしたらいいのか本当に困った記憶があります。
そして、離婚した父が一緒に住んでいるであろう祖母の家に電話をしようと思ったのです。
僕はおばあちゃんっ子と言っていいくらい、幼少時は祖母にお世話になっていた記憶があります。
ですから、母が危篤になったことを伝えたら、別れても孫のことだから助けてくれるかもという考えがありました。
電話をかけると、祖母が出てくれたので、すぐに「お母さんが危篤になったんだ。僕も一人でどうしたらいいのか困ってる」。
それを告げた直後に、「そうか、大変だな。まあお父さんには伝えておくから」。
電話ボックスの前で悔し涙を流し、電話を切った時くらいでしょうか。
「もう、誰もいいわ。自分でする。」
こんな感覚になったのを覚えています。
これが2回目のスイッチでした。
ピンチになったときにはスイッチが出てくる。
1回目のスイッチの時、2回目のスイッチの時、どちらもピンチであり、悔しさや惨めな感情があったと言えます。
人は生きていると、必ずそういった場面というのは遭遇するはずでしょう。
ここで大切なのは、スイッチの存在に気づくということです。
実際にはそんなものは存在しません(笑)
ただし、究極のピンチになったときに、このスイッチが心の奥底にあることを認識しておくのとしておかないのとでは、次の行動に大きく左右することになるはずです。
電化製品を売らなければいけないくらいの生活状況、そこでスイッチを入れていなければ何も変わりませんでした。
母が危篤状態になり、一番近くにいる身内に見捨てられたとき、スイッチを入れず、悔しいだけで終わっていたらそれだけの人生で終わってしまっていたかもしれません。
過去の経験が今に生かされている
僕が様々なところで色々なアイデアを出して、活動できるのは次のこういった経験からだと思っています。
中学2年の時の悔しさと経営者の激励の言葉を受ける(経営者になるきっかけ)→経営者になる
高校時代、アルバイトをして学費を稼ぐ(お金を増やす方法を学ぶ)→創業直後、皿洗いをし食いつなぐ
アルバイトをしながら、空手部主将を務める(時間の管理方法を学ぶ)→複数の事業を展開してもうまく時間調整が可能
アルバイトから帰宅後、夫婦喧嘩を目の当たりにする(メンタル強化)→人の困りごと相談
どうしたらアルバイトの仕事が早く覚えれるか(コミュニケーション力向上)→コミュニケーションを図るのが好き
多くの人にお世話になって成長ができた(経営の軸を構築)→人に喜んでもらい、事業を成功させて、さらに人の役に立ちたい。
後半メモ書きに近い文章になっていますが、今の自分の事業の軸、今西強にとって経営とは何か?と問われた時には、こう答えるでしょう。
「過去の経験からしか言えませんが、人の役にたつことです」
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